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Posted by 京つう運営事務局  at 

2008年11月30日

野良犬観光客が京都を潰す

 当然ながら「野良犬観光客」とは、ワタシの造語である。野良犬の群れに餌を投げると我先に食らいつきに行って、少量の餌を大多数の群れで食いあさって、食べかすをその場に棄てて去ってゆくでしょ?
 無責任なマスコミにポイと餌を見せられたら、何処からとも無く現れて、我先に駐車場、社寺、料理屋へ並んで、周囲の住民に迷惑(渋滞、ゴミのポイすてetc)をかけて去ってゆく観光客のことを言う。

 綺麗な庭が見たい、美味しいモノが食べたいのはいいけれど、将棋倒しになっても不思議じゃないほど行列したら、お庭見てるのか、人の背中見てるのか解らないンじゃないの? それって「有名な所へ行きたかっただけ」であって、それって時間の使い方というか、休日の過ごし方というか・・・・・が間違えているとしか思えない。平素は仕事なり何なりで、疲れているのに、わざわざブランド詣でして疲れて満足するのだろうか? 折角京都に来たんだから・・・・であっちもこっちも移動する為に、カーナビも上等になったから駐車場もすぐ見つかるだろうと、でっかい自家用車で来るのだろうけれど貴方の大きな自家用車は、京都の狭い道では曲がれません。駐車場はあるけれど、貴方のために確保されているとは限りません。自家用車で来ることが、かえって機動力を落としていることがまだ解らないのかPRが十分なされていないのか? 観光地周辺の人々に迷惑をかけている事にまったく気づいていないからなおなお更タチが悪い。野良犬には人間の道理がわからないから仕方がないのだろうけれど、人間の姿をしているから性質が悪い。

 以前、観光地を「銭湯」に喩えた事があるけれど、再度くりかえす。休日のスーパー銭湯は大賑わいで待ち時間が二時間とか言われることもあるそうだ。心身をリラックス&リフレッシュする為に2時間も並んで待って疲れたら何しに行ってるのかわかりゃしない。そういう時に地元の銭湯なんかによると、狭いけれど自分だけしかいなかったとか、ほんの数名だったりすると得した気分にならない? 広いところでギュウギュウ詰めにされるのと、狭いところでゆったりすごせるのと、どちらの環境がゆったり心身をリフレッシュできますか? そんなの考える以前の問題でしょう。
 そりゃ綺麗な庭を見に来るなとは言わないが、なぜ拝観料を取られるのか考えて欲しい。綺麗な苔が生してる所、当然「侵入禁止」などと書かれていたりするそこへ「ドン」と脚立を置いて写真を撮るカメラオヤジ。ガム、タバコ(禁煙にかかわらず)を棄てる馬鹿。そいうう輩がいるから、拝観料を取って、庭などの整備に当てないといけなくなる(当然、管理者の生活もあるしね)造園屋さんだってお寺さんやったらサービスで・・・・なんて訳にゃいかない。観光客が増えるほど、庭園は痛み、その補修にかかる費用も高額にならざるをえないのだ。
 そういう意味では「苔寺」の対応はすこぶる正しいと思う。予約して3,000円は高いし面倒くさい! と思う野良犬をシャットアウトできるのだ。キチンと写経などの体験を組み込んでいるので仏教の教化活動もキチンと組み込んで本来の目的もキチンと果たしているし、お庭もゆっくりゆったり鑑賞できる。この付加価値が3,000円なら決して悪いものではないと思う。

 京都の料亭は「予約制」の所が多いンだよね。これって一見「お高くとまってる」ように見えるけれど、日程決めて電話一本で美味しい料理をゆったり楽しめる訳でしょ。お店としても仕入れが決まるし、ロスが少なくてすむ。時間的、空間的余裕ができるのでレベルの高いおもてなしができるので、付加価値が高められる。お店も高い料金が設定できるしお客様の満足度も高まる。双方にメリットがあるわけでしょ。当然、野良犬もシャットアウトできるハズなんだけれども・・・・・・

 船場吉兆さんが、なぜ手の付かなかった料理を次の客に出したり、賞味期限を改竄したりしたかを少し考えてみよう。料理のプロがそのような事をするのは、稼げるンだろうけれど、本来はプライドが許さないハズなんだよ。「勿体無い」と思うなら「まかない」で頂くこともできたハズだし、「あれ、今のお客さんなんでコレ残さはったんやろ? ワタシの味付けが悪かったんだろうか? 量が全体的に多かったんだろうか?」 なんて悩んで味見してみる対象にもなるので、常識で考えたら手付かずの料理を次のお客さんに出すということは考えられない。じゃあその常識を逸脱した行為に出た背景には、やっぱり「価値のわからないお客」がいたからではないか? とワタシは踏んでいる。

 素材を厳選して、持てる技術を凝らして作ったプロの料理の味がわからなかったり(地鶏とブロイラーなんて普通わかんないよな)手付かずになされたりすると、何の為にこだわったのかわからなくなる。仕事していて空しくなったんじゃないかな? 料理は「命」を頂くものだ。牛や豚、鶏、魚、植物の死体を人の口に入れやすく加工する仕事だ。食事は命に感謝して頂くものなのだ。それが、ないがしろにされたら・・・・・腹も立つよな。お客に説教する訳にもいかないだろうから、まさに猫に小判、馬耳東風の心境からあんな行為に走ったのだとしたら、同情の余地はある。

 京都はこのままほおっておくと「野良犬に社寺、グルメ」という新しい諺ができるかもしれない。なんとかしないと・・・・・・  


Posted by 淀の生頭  at 05:38Comments(1)日々是不毛