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Posted by 京つう運営事務局  at 

2008年02月25日

雪なんか嫌いだ

  あの~ ど~でもいい話なんですけれども・・・・

 そりゃ~観光客は「雪の金閣寺きゃ~きれい~」で済むよ。私だって仕事サボって、温泉つかった後に、雪の降り積もる坪庭なんぞ眺めながら湯豆腐で熱燗としゃれこみたいよ。昼酒は男のロマンだもんな。

 でもね、早朝の路面は凍結してるんだよ。昨日の朝、奈良方面から出勤している同僚は、R24の玉水橋と山城大橋の間で木津川に車が落ちていたのを目撃した。 東山トンネルでは山科側から東山区へ出たところで車が数回転して動かなくなったらしい。極めつけは観月橋で炎上した。 きっとこんな派手な事故が目立っただけで、あちこちで「コツン・ゴツン・ガン」程度の事故は無数にあったんだろうな。

 先週の朝もすごかったぞ。九条山、外環状線の観月橋高架、大岩街道で事故でおおわらわ。やれ原谷、比叡平と命懸けともいえる配車が多く、対応できない。そりゃ仕事をサボるつもりはないが、命あってのもので、お客様と一緒に事故ることを思えば仕事から逃げることも身を守る方法の一つだ。私ゃサボることもできず、外環状線の名神高架から津知橋の油小路へ向かっていた。通常なら20~30分のコースが約2時間かかった(泣)

 そんななかっでも手上げで花脊まで行った剛の同僚もいた。1mは積もっていたらしい。雪山で「寝たら死ぬ」のは八甲田山だが、花脊峠では「止まったら後ろに滑る」らしい。はっきりいってあんな狭くて蛇行した急向背の坂じゃ、スリリングなことこの上なしだ。
 お客様いわく、「4~5台の車に断られました」さもありなん。去年は雪が少なかったので、今年も大丈夫とタカをくくってスタットレス履いてる車、今年はちょっと減っている。

 実際、営業車も数台、あちこちで「コツン・ゴツン・ガン」程度のことをしてしまっている(私じゃないよ)。
 ちなみに、私は昨日、生まれて初めて車のフロントのバンパーにツララができているの見た! 3~5cmはあったぞ! 要はラジエーターで溶けた雪が水になって滴り落ちるときに凍ってできるんだ。この歳になってツララに感動するとは夢にも思わんかった。

 雪こんこんにも困ったもんだ。というか、無謀のドライバーが多すぎるンだけどね。そんな、路面が凍結してることを前提で走らないと事故るの目に見えてるじゃん。車も無謀だけれど、自転車を含む二輪も無謀だ。路面状態が悪いのに、バランスの悪い乗り物を使うと転倒するのは目に見えている。加えて道路の白癬やマンホールの蓋など、バナナの皮のフリした奴らが路上でおいでおいでしてる。ツルて滑って転んでアイタタタで済んだらドリフのギャグで済むが、路上でアイタタ~と言った尻から車がスリップして突っ込んできたら目も当てられない。それでも悪いのは車になるんだから、車側はたまったもんじゃない。

 車間距離とっていても、ブレーキ踏んでから何mで止まれるかなんて、神のみぞ知るだ。加えて自転車なんぞ「傘さして」走っている。ただでさえ路面条件が悪いのに、片手で物もって、この春一番がぴ~ぴゅ~吹くなかをだ。

 大胆不敵なことこの上ないぞ。ウチの営業所じゃあ出入り口のガラス戸が割れた。別に私が頭付をかました訳ではない。自販機用のゴミ箱が飛び、看板が踊る風だ。傘さし自転車に転けるなと言うほうが無理だ。なのに、そのような移動手段を選択するのは何故だ?

 自転車にしろ、車にしろ、「運転」をなめてかかるとろくなことにならないよ。自分だけで済む事故、一方的に相手が悪い事故なんて、めったにないんだからね。

 まぁ昨日の雪で、今年はもうおしまいだと思うンだけれど・・・・肩こってしゃ~ないわ。

 と、いうわけで、今回もめでたし。めでたし。  


Posted by 淀の生頭  at 05:18Comments(0)日々是不毛

2008年02月04日

我はいかにして神主になりしか(下)

ど~でもいい話なんですけれども・・・・・・

 さて、さて、三部作のオチに入るのだが・・・まじめに神主する事とはど~言うことなのか? かなり頭を悩ませた。なんせ、「宗教で食う」訳だからイメージは良くない。しかし、かかし神社だけで食ってるところも多々あるわけだ。実際、大手有名社寺のお坊さん、神主さんが「学校の先生と兼ねてます」なんて話は聞かない。田舎だから兼ねてるのよね。だったら田舎神社がそれだけで、食うこと=「悪い」というイメージは単なる先入観であったのだが、この先入観を払拭するには時間がかかった。

 これってバブルの時期に、本業をおろそかにして土地に投資して、そっちの収益が上がったから本業をおろそかにしちゃった企業に似ているような気がする。

 実際、田舎の神社だけでも、いゃ言っちゃあ悪いがウチよりも田舎で、それこそ電車も走っていない田舎神社でも、神社だけで食っているお社はある。そういうお社におは遠方からの集客があるのだ。
 神社に「集客」ができるからこそ、地元にも「飲食、お土産など」の経済効果が上がる、地元へ神社がお金を落とすからこそ、地元の人が神社を大事にしてくれる。といった人とお金の循環が生きているからこそ神社だけで飯が食える。
ここでの神社の仕事は、遠方からの参拝客や観光客の接待であってそれ以上ではないが、結果として「まちづくり」の一旦をになっているのである。

 言い換えれば遠方からの集客力をつければ、神社は、規模の大小や田舎やそうであるなしは多少関係はあるので一概には言えないが、「まちづくり」に貢献できれば神社だけで食える。もっと言えば神社の仕事は「まちづくり」であって、御祈祷、お祭りは二の次じゃないか? という気がしてきたのだ。

 神社はいろんな形で、それこそいろんな縁起があって、現在地に鎮座されているのですが、京都市内では有力氏族、国家の祭祀とされる神社から、氏神様の神社、僧兵が担いで暴れて放置したお神輿が、神社として成立していたり、館で祭られていたお稲荷さんだけが残って、館は移転してしまったとか、明治時代に設立された神社も多く、大きな社でも氏子さんが居なかったりする事例は多々ある。つまり氏子さんを持たないお社は意外と多いのだ。それゆえ、神社だけで食えないっていうことはありがちな話で、氏子さんの側でも、自分が何処の氏子に当たるのかわかんなかったりすることも多々あると聞く。

 じゃあそんな神社が考える「神社が貢献できるまちづくりって具体的に何?」っていう話になる。ウチの社の事例を考えれば、現在の氏子世帯数約600世帯。田舎でなくとも神社にしては多いほうなんだよね。
これは文献による大昔は今の氏子地域内に3社神社があったのだが、その3社のお祭りの運営に関して揉め事が起こって人が死ぬ事件があったので、1社にまとめたといった内容が記されている。そういうある意味特殊な事情で、氏子世帯数が多く、兼務社もなく600世帯もの氏子地域があるのだ。

 じゃあ600世帯が年間1万円、ウチの神社にお金を使ってくれたら、ウチの社は年収600万となる。仕入れなどの経費を差っぴいても、なんとか食える数字は確保できるはずなのに、ウチの宮司の前の宮司さんの段階ですでに、副業で食って本業である「まちづくり」を疎かにしてしてしまったので、田舎の名誉職という肩書きだけが形骸化してしまい、その肩書きが名誉ではなく「わずらわしいもの」になってしまったので、23代続いた宮司さんの息子さんは、神主やんぺにしてしまったんだろうと勝手に推測している次第。まぁ気持ちはわかる。

 それじゃあ「神社にできるまちづくり」って何だろう。「観光集客」ちゅうのは、どうあることが理想的なんだろう? タクシードライバーという商売を付けば「四囲のいろんな人」とであって生活臭い話が聞ける、「観光客」とも話が聞ける。「観光を受け入れる側の人」とも話が聞ける。

 まぁ個人的には神社運営というか活性化の手法の方向性は、考えてはいるのだけれど。。。その方向性を検討し、固めて将来、ウチの神社に拘らず、田舎神社の活性化支援をすることを目的として、タクシードライバーなんぞになってみたのでありました。

 これはせめて私の次の世代には、二束の草鞋をはかないで済むように、との思いもある。まだ嫁さんいないけれど・・・・・

柄にもなく真面目な文章書いてしまったけれど・・・・

とりあえずそ~言うわけで。
今回もめでたし、めでたし。
  


Posted by 淀の生頭  at 11:24Comments(0)日々是苦労